第4章 長男誕生と子育て |
昭和51年7月23日 長男3カ月半 |
結婚をする1か月前から、私は労働組合の役員となり、特に長時間拘束される教育宣伝に携わり、多忙を極める事になる。 妻は少なからず違和感を持ったと思われるが、私の異常な生活に順応、結婚前から本分としてきた、内助の功に徹してくれた。 私自身はマイホーム主義者で、仕事は生活費を稼ぐための腰掛に過ぎないと、結婚前から決めていた。 現実には、昭和40年代後半から50年代にかけて、高度成長の名のもとに、時代が大きく動き出した時でもあり、生活スタイルも変わらざるを得なかった。 それまで、戦後のどさくさ期に、旧態の権力構造を復権すべく、飴を与えられて好き勝手やってきた団塊の世代から、鞭に替わって、抑制された世代へと、労働組合も移らざるを得なかった。 私は鞭にまみえ、最も損な役回りを押しつけられた形となった。1年でいったん辞めるが、その2年後に、後始末を押し付けられ、5年の長きに渡り、大々的な合理化と高度成長が一体となり、日本の社会が汚職にまみれた、格差社会に移ろっていく、一翼を担う事になる。 多忙と、出産、子育てが一体となった、私の特異な生活環境を、妻の寛容さと、後ろ盾で乗りきって行く。究極の内助の功で、我が家の幸福な生活は、妻の力によるところが大である。 妻にとって、子育ては生きる目的であり、我が子に対して、きめ細やかに愛情を注ぎこんでいた。その姿は、私にとっては何よりも美しく感じられた。 私は、多忙を極めていたが、可能な限り子育てに参画し、私の役割は子供の遊び相手になる事と任じ、精一杯役割を果たしてきた。 |
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3月8日 水戸の偕楽園を探訪(歴史博物館)
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(偕楽園)水戸に行った頃は互に気忙しく、散髪もままならなかったようである
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4月20日(日) 黒山自然公園(妻の両親も伴って、定峰峠へ桜見学に行く)
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(同平天文台)
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4月29〜5月2日 父の墓参と結婚式のお礼参りを兼ねて、四国香川・大阪へ行ってくる
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(高松城跡を背景にして)
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(帰りの船上にて)
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6月16日(月) 鎌倉へ行ってくる
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7月25日(月) 大洗海水浴
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昭和51年4月5日 長男誕生
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4月12日 退院して
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5月6日 孝介お宮まり
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5月14日 自宅にて
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5月30日 自宅にて
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7月2〜23日 自宅にて
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8月1日 自宅にて
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8月17日 自宅にて
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9月6日 熊谷にて
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9月23日 自宅にて
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10月7日 自宅にて
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10月23日 自宅にて
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11月3日 自宅にて
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12月10日 親戚の芝にて
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12月11日 妻のおめかし姿(何があったのか日記には書いてなかった)
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12月11日 大宮公園にて(初めての遊具)
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